「休止符に込められた思い」青木賢児
今年の大宮高校の卒業式は、3月1日に行われました。私は同窓会の代表として毎年出席させていただいていますが、今年の校歌斉唱には例年になく、ひとしおの思いと感動を感じたような気がしました。
卒業式に先立つ2月24日、同窓生の山本友英君が、母校を訪ねて音楽の先生にお目にかかり、「大宮高校校歌の歌い方」について意見の交換をしたという話を聞いていたからかもしれません。
長嶺宏作詞、園山民平作曲の大宮高校校歌は一番から三番までありますが、それぞれの歌詞の終わりはすべて、「大宮 大宮 大宮 我等が学園」というフレーズにより、校名を三度歌い上げ、あらためて母校への万感の情をこめて締めくくられています。
山本君は自らも作曲を手掛ける音楽家でもありますので、「大宮 大宮 大宮」と「我等が学園」という歌詞との間には、1拍の休止符がついていることに大きな意味があると考えていました。
同窓会の会合や私的な集まりなどでは、多くの場合この休止符が無視されて、「大宮 大宮 大宮 われらが学園」と休止なしで連続して歌われることが大半だというのです。そのことについて、山本君と音楽の先生は意見を交わしたということでした。
今年の卒業式で、タクトを振った先生は、明らかに休止符のところでタクトを静止し、その瞬間に見事な静寂が生まれました。参加者のどれほどの方が意識したのかはわかりませんが、校歌は「大宮、大宮、大宮」で止まり、瞬間の静寂を破るように「我等が学園」という言葉が再び会場に響き渡りました。
私はこの話の流れを振り返りながら、今から15年ほど前に宮崎国際音楽祭の講習会で、アイザック・スターンが日中韓の若い講習生たちに「音符の一つ一つに敬意を払ってください。楽譜には無駄な音符は一つもないのです。」と繰り返し説き続けていたことを思い出していました。
音を出さないという休止符も、立派な音符なのだとあらためて思い返しています。
青木 賢児
(宮崎県立芸術劇場名誉館長、大宮高校同窓会会長)
1932年宮崎市生まれ、1951年宮崎大宮高校卒
1957年東京大学仏文学科卒、NHK入局、1982年NHK報道番組部長
1991年NHK専務理事(放送総局長)、NHK交響楽団理事長
1996年宮崎県立芸術劇場理事長兼館長、宮崎国際音楽祭総監督
受賞歴、日本新聞協会賞、宮崎日日新聞特別賞、宮崎県文化賞、新日鉄音楽賞特別賞