「宮崎空襲、唯一の被爆写真」青木賢児
今年の6月1日、宮崎駅にほど近い広島2丁目で、500キロの不発弾処理が行われ、広い範囲に立ち入り禁止措置が取られるなど大騒ぎになりました。この不発弾は今から69年前、終戦直前の5月11日に米空軍のB29爆撃機によって投下されたものだということでした。
この不発弾処理のニュースに関連して、宮崎日日新聞は6月19日に「宮崎空襲の記憶」を、私の家の被爆写真とともに三面に大きく掲載しました。今回の不発弾とわが家の被爆写真については、同じ日の空襲による出来事という以外に特別の関連はないのですが、何故この紙面に掲載されることになったのか。その理由は宮崎市空襲の被災写真は、ほかに一枚も存在しないからです。
終戦の年の5月11日の空襲では38人の死者を出すという、宮崎市にとって最大の戦災を受けた日でした。私は宮崎中学に入学したばかりで、この日の放課後友人と二人で下校の途中、橘通り3丁目付近で空襲に遭遇、大通りに沿って掘られた無蓋の防空壕に飛び込みました。
その日は小雨が降る天候で、B29爆撃機の爆音は聞こえていましたが、機影は全く見えませんでした。空襲警報が鳴り、地鳴りのような爆弾の音が聞こえ、驚いた馬車馬があちこちで人の手を振り切って駆け回り、防空壕の上を飛び越えたりして、爆弾よりも放れ馬の方が怖かったのを記憶しています。
空襲警報が解除になって、大通りに出てみると「附小がやられた」とか「駅に爆弾が落ちたげな」とか言いながら多くの人が走っていました。そのあとについて薄暗くなるまであちこち走り回りましたが、どこも非常線が張られていて詳細を見ることはできませんでした。
薄暗くなって、宮田町の自宅に帰ると宮日新聞に掲載された写真のように、わが家の屋根は吹き飛んで、玄関先とおぼしき所に直径20mほどの大きな爆弾の穴があいて、すでに地下水がいっぱいに湧きだしていました。
それから50年ほどたった時、私は宮日新聞から自分史連載を頼まれました。当時住んでいた東京の家の押入れから未整理の写真を引っ張り出して、連載用の写真を探していたら、爆風で吹き飛んだわが家の写真が一枚出てきたのです。
戦時中には被災現場は撮影禁止だったでしょうし、なによりカメラを持っている人はほとんどいない時代でした。父が自慢のドイツのカメラでこっそり撮ったものだと思うのですが、いまだに宮崎市の戦災現場の写真をほかに見たことがありません。
青木 賢児
(宮崎県立芸術劇場名誉館長、大宮高校同窓会会長)
1932年宮崎市生まれ、1951年宮崎大宮高校卒
1957年東京大学仏文学科卒、NHK入局、1982年NHK報道番組部長
1991年NHK専務理事(放送総局長)、NHK交響楽団理事長
1996年宮崎県立芸術劇場理事長兼館長、宮崎国際音楽祭総監督
受賞歴、日本新聞協会賞、宮崎日日新聞特別賞、宮崎県文化賞、新日鉄音楽賞特別賞