平成19年2月28日に同窓会入会式が行われ、渡辺綱纜会長が同窓会入会と卒業の祝辞を述べました。
ただいまご紹介をいただきました弦月同窓会の会長をつとめております渡辺綱纜です。
三年生の皆さん、いよいよ明日は卒業式、一日早くお祝いのことばを申し上げます。御卒業おめでとうございます。そして今日は、弦月同窓会の入会式であります。428名の新しい同窓生、同窓会員をお迎えし、同窓生一同を代表いたしまして、心から御歓迎を申し上げます。
我が母校、大宮高校は1888年、明治21年でありますけれども創立されました。1888年「1888」8が三つですから非常に覚えやすいですね。平成になりまして非常に覚えやすくなったのが、創立何年という数字であります。今年は平成19年ですからこれに百を足しますと、創立119周年とこういうことになります。1888年、明治21年にこの大宮高校の前身であります旧制の宮崎中学校、当時は尋常という言葉が入っておりましたけれども、宮崎尋常中学校として創立されました。校舎はこの場所ではありませんでした。今の宮崎大学の付属小学校、そこが旧制宮中が産声を上げた場所であります。先輩の話を聞きますと、当時は附属小学校の跡の所でありますけれども、校門の横に大きな松の木がていていとして聳えていたそうであります。雲を凌ぐような背の高い大きな松でしたので、生徒達は「凌雲松」雲を凌ぐ松と名付けて親しんいたそうでありますが、学校に朝行きますとその松の木の下に立ち止まって、その松を見上げて大きく夢を広げていたと話を聞いたことがあります。
大正8年に放火事件がありました。その当時は事件が宮崎は非常に少なくて大変な騒ぎになったそうでありますが、全焼したということを聞いております。これが大正8年、そしてその年にこちらの方に仮校舎、すぐ新校舎を建てて移ってきました。もう既に大正8年でありますから88年経過しているわけであります。この場所で、宮崎中学校が誕生しましてから9年遅れまして、明治30年に宮崎県立第一宮崎高等女学校が創立されました。これが今の広島通り、ちょうどNTTがありますですね。あそこが昔の女学校の校舎の跡であります。そして、戦後、昭和23年にちょうど戦後3年目でありますけれども学制改革がおこなわれまして、今の「6・3・3・4」の新しい学制ができまして、宮崎中学校と第一宮崎高等女学校が合併いたしまして新制宮崎大宮高校が誕生したわけです。先程御紹介がありましたとおり、私はその第1回の卒業生であります。
最初は、宮崎商業学校、宮崎女子商業学校どちらも県立でありますが、四校合併致しましたので、商業科がございました。しかし、その後独立して今の宮商になっております。また、夜間部や定時制もございまして、これも後に独立して今の東高校になっております。私どもが第1回の卒業と申しまし上げましたけれども、その時の在校生は、2,700人でした。校舎もここだけでは足りずに女学校が今の西中の所にございましたので、敗戦後やはりこれも焼けまして新校舎をそこに建てたんですが、そこを南校舎と呼んでんでおりました。こちらを北校舎と言いまして北校舎と南校舎で授業を致しておりました。この弦月同窓会の名前は戦後新制高校になってから付けられた名前でありますけれども、弦月という名前の由来は御承知の方も多いか知れませんけれども、ちょうど今の東高校そこに大きな池がありました。この池が三日月形でありましたので、弦月湖と名付けられておりました。当時を知る私達にとっては、本当に懐かしい池であります。一日に何度も池の畔に立ってよく休んだものであります。春になりますとちょっと小高い土手がありましたけれども、これに青々とした草が芽生えまして、レンゲとかスミレとかタンポポとか色んな花がいっぱい咲いておりました。夏は、ホテイソウというのですか水草が池の全体に繁りました。そしてよく昼休みには釣り竿を持って行って釣りをしたものであります。鮒や鯰が釣れました。また、雨が降りますとオタマジャクシから孵ったばかりのガマの子だと思いますが、黒い小さなカエルが運動場を真っ黒にするほど上陸してきました。秋になりますと土手の上には一列に櫨の木が並んでおりましたけれども、これが真っ赤に紅葉いたしまして、旧制高校の校歌にありましたが「紅燃ゆる丘の上」という文句がありましたが、そういう風景でありました。 また、冬はシベリアから鴨がたくさん飛んできて、日向ぼっこをしながら、私達はよく鴨の群を眺めたものであります。そのような非常に在校生にとって懐かしい弦月湖の名前、弦月を取りまして私ども大宮高校の同窓会は弦月同窓会と名付けて発足したわけであります。
母校も先程申し上げましたように、平成20年はいよいよ創立120周年の年を迎えます。一口に120周年と申しますけれども全国に公立、私立合わせて高等学校は5,400何校かございますけれども、120年以上の歴史を持つ高等学校は僅かその内139校しかございません。また、卒業生の数も皆様方428名を迎えて、ちょうど45,332名に明日はなります。卒業生の数が、これまた、40,000人以上の卒業生を持ってる学校は5,400何校の内、僅か15校しかありません。わが宮崎大宮高校は、その6番目にあります。だから同窓会としては非常に人数の多いマンモス同窓会であります。10周年ごとにずっと記念行事をやっております。この前は110周年でした。実は私は70周年の時にこの弦月同窓会のお仕事を手伝うようになりまして、私は70周年からずっと記念行事に出ておりますが、やはり記念行事の中で一番思い出になるというか記念になるという行事はこの母校のこの場所で開かれます記念講演会であります。卒業生の中からその時一番話を聞きたいなと思う人を選んでお話を伺ってまいりました。私が初めて聞いたのは70周年の時でしたけれども、当時東京学芸大学の村上学長先生、この方が「海と日本」という題でお話になったのをよく覚えております。その時は二人されまして、もう一人は東京大学の教授で日高孝次と言う先生で、教授でしたけれども日高パーティというのが当時ありまして、非常に有名なマスコミにもてはやされた先生であります。この方が「私の学生生活を省みて」という題でお話されたことをよく記憶いたしております。80周年の時には、ちょうど万博が行われた年でありまして、大阪万博でありますが、その大阪万博の立て役者でありました大阪市長の中馬 馨さんが講師でありました。「万博と日本」という題でお話になりました。また、90周年の時には宮崎交通の創立者であります岩切章太郎先輩が、ボーイズビーアンビシャス「少年よ大志を抱け」というあの有名なクラーク博士の言葉を演題にして話をされました。100周年の時は高島屋の日高啓社長で、演題は「21世紀は君たちの時代だ」でした。10年前の110周年の時には、私も引っ張りだされまして、私と若山牧水の研究で有名な今宮崎看護大学の教授をしておられる伊藤一彦さん、それに社民党党首をしておられる福島瑞穂さん、三人で母校時代の思い出というテーマでリレーの講演を致しました。
来年は、今、校長先生を始め関係の先生方で候補を選んでいただいておりますけれども、すばらしい先輩が来て話をしてくださる事になっております。どうか、今2年生と1年生の皆さんはその話を聞く事ができると思いますけれども、3年生の皆さんもその時宮崎に居られたならば、是非聞いていただきたいと思います。
最後にもう一度、卒業生の皆さん3年生の皆さんに心から祝福を申し上げたいと思いますが、明日は卒業生、そして、全国各地にあるいは海外に、皆さんは大きく羽ばたいて行かれます。たとえ地球の果てに行っても、どうか我が母校宮崎大宮高校のことをいつも思い出していただきたいと思います。母校を励みにしていただきたいと思います。「自主自律」という校風も思い出していただきたいと思います。
母校大宮高校は、また、弦月同窓会はいつも熱い眼差しで皆様を見つめております。どうか、頑張ってください。
最後に、私が大変尊敬しております先程もお名前を申し上げましたけれども、宮崎交通の創立者であります岩切章太郎さんが、いつも私達に言っていた言葉を、今日は皆様に最後にはなむけの言葉として送って、歓迎の御挨拶にかえたいと思います。その言葉は「心配するな工夫せよ」であります。
以上をもちまして歓迎の御挨拶といたします。ありがとうございました。
弦月同窓会会長 渡 辺 綱 纜