第1回から第20回までの20年間、宮崎国際音楽祭の総監督を務められました弦月同窓会の青木会長の引退セレモニーが、第20回宮崎国際音楽祭の最終日である平成27年5月17日(日)に宮崎市のメディキット県民文化センターで行われました。
青木会長に、20年間の宮崎国際音楽祭の思い出などを振り返って頂きましたので、ご覧下さい。
「宮崎国際音楽祭の20年」 弦月同窓会会長 青木賢児
私は「宮崎国際音楽祭」の総監督を、20年にわたってつとめさせていただきました。この音楽祭は宮崎県立芸術劇場が落成して2年後、平成8年に世界的ヴァイオリンの巨匠アイザック・スターンを招いて創設した、宮崎県としては初めての国際的な音楽の祭典でした。
宮崎県は昭和58年に置県百年を迎えましたが、美術館やコンサートホールなどの文化施設に乏しく、文化的には日本で最も遅れた県の一つとされていました。そこで、宮崎県は21世紀への記念事業として「文化公園構想」を立ち上げ、宮崎大学移転跡地に美術館とコンサートホールを建設して、この文化公園を中心に21世紀にふさわしい都市づくりに立ち上がったのです。
その頃、私はNHK交響楽団の理事長をつとめていましたが、突然宮崎県の方から新しくできるコンサートホールの運営に参加してほしいとの要請を頂きました。大宮高校を卒業するころに数学の先生だった後藤先生からのお話だったので、すぐに飛んできて「宮崎県立芸術劇場」の設備を見せて頂くと、信じられないほどの素晴らしい設備であることが分かりました。それまで、N響は九州一週の演奏旅行では、宮崎には演奏会場がないからという理由で、宮崎での演奏をスキップしていました。
平成5年4月に宮崎県立芸術劇場が開館すると、私はN響と兼務で宮崎県立芸術劇場の初代館長に就任することになりました。しかし、宮崎県立芸術劇場は素晴らしいコンサートホールではありましたが、宮崎にはそれにふさわしいソフトがありませんでした。東北の「田んぼの中のバッハホール」をはじめ、全国各地でハコモノ行政に批判が集中したのもその頃でした。
私は当時N響コンサートマスターだった徳永二男さんの助けを借りて、宮崎の新しいホールにふさわしい音楽祭の創設に取り組むことになり、劇場開場から2年後にアイザック・スターンの招聘に成功すると、平成8年に「第1回宮崎国際音楽祭」を立ち上げました。長い間ニューヨークのカーネギーホールの館長を務めてきたスターンさんは、アメリカを代表する音楽家たちを宮崎に招き、徳永さんは日本の選りすぐりの演奏家を宮崎に集めてくれました。こうして、日本には数少ない国際的な音楽祭が、文化過疎地とされてきた宮崎に誕生したのです。
アイザック・スターンの音楽祭は、世界の音楽家が注目するところとなり、ウラディーミル・アシュケナージやピンカス・ズーカーマン、シャルル・デュトワ、ミッシャ・マイスキー、ジュリアン・ラクリン、ライナー・キュッヒルなど、欧米の巨匠たちを含めて多くの内外の音楽家たちが宮崎国際音楽祭に参加して、宮崎の文化水準を一気に高めてくれました。
第20回となる今年の宮崎国際音楽祭は、4月29日から5月17日まで、メインプログラム、記念プログラム、教育プログラムなど合わせて16公演、出演者は海外から9人、国内から143人、入場者の数は県外客を含めて1万7千人に上りました。
芸術文化の発展は、単なる娯楽や楽しみが増えるばかりでなく、社会の進歩や発展に大きな力になってくれます。情報化が進み、産業や暮らしが大きく変化する中で、文化を振興させることは社会発展に欠かすことのできないものと考えられています。
宮崎国際音楽祭の発展のために、宮崎県民の多くの方々にお力添えを頂いたおかげで、宮崎国際音楽祭は今や全国でも一二を争う音楽祭に発展してきました。宮崎にとって、「平成ルネッサンス」ともいうべき20年だったと思います。
青木会長(向かって左から3人目)