この度上智大学第15代学長に2014年4月より就任された早下さん(第28回卒)にインタビューをおこないました。
以下をご覧ください。
1.大宮高校へ進学された理由をお教えください。
私の母方は、3姉妹全員、大宮高校出身者だったこともあり、いつも大宮高校のことを聞かされていたので入るのが自然であると思っていました。
2.大宮高校時代の思い出を教えてください。
【体育祭】
体育祭では、仮装行列をしました。友人の松村君の実家である松村産婦人科から看護師さんの白衣を借り、私は看護師の格好をしたのを覚えています。
また、お腹に絵を描いて、腹踊りをしたことも覚えています。バレーボールのクラスマッチでは、3年間すべて優勝でした。
【バレーボール部】
大宮高校は進学校であったため、先輩が早くに引退をしまして、私は1年生の後半からキャプテンを務めていました。
当時の顧問は倉本先生という順天堂大学出身の体育科の先生で、練習が厳しく、14名いた同期が4名になってしまいました。自分がやめたらバレー部がなくなってしまうという思いが強く、一人で練習したこともありました。しかしながら厳しい練習に耐え抜いたことで、翌年には1年生エースの活躍もあり、宮崎県でベスト8に入ることができました。当時は進学校が県でベスト8に入ることが珍しく、ベスト8に入ったことで、当時の強豪校である宮崎電子工業高校(現:宮崎第一高校)が、わざわざ練習試合に大宮高校へ来たことを思いだします。このような部活動での経験と自信が、その後の私の人生に大きな影響を与えました。
「辛いときに逃げない。辛くとも耐えて頑張っていたら、必ず次に繋がる」ということを実感として体得しました。あの時に、あの厳しい練習に耐えきったからこそ、「このくらいのことは我慢できる」ということの積み重ねが、私の人生の中にあります。最近の子供たちには、辛い時には無理をせずに休みなさいと言ってあげなければならないと思っていますが、踏みとどまることの大切さにも気づいて欲しいと思います。なぜなら一度背中を見せてしまうと、色々な場面で立ち向かう勇気がなくなってしまいます。
そこを踏みとどまって頑張る経験を積み重ねることが、リーダーとして将来活躍する人間になるためにとても大切であると思います。
また、「鶏口となるも牛後となるなかれ」という言葉があるように、常に1番を目指して欲しいと思っています。私は色々な大学に赴任しましたが、優秀な学生はどの大学にもいました。どんなランクの大学であっても、トップの学生は常に優秀でした。反対にランクの高い大学であっても、競争に負けてしまった学生は、本来の実力を発揮することができず自信を無くしてしまいます。どんな環境でも良いので、自分が1番になることのできる環境を見つけて欲しいと思っています。
私が九大へ入学して良かったと思っていることは、学科においてトップの一人でいることができたということです。このことが自信に繋がり、次のステップや、その後の様々な挑戦に繋がっていったと思います。
(下段の真ん中:早下学長、中段左端:橋口氏)
【勉強】
私は大宮高校時代、決して優秀な生徒ではありませんでした。ただ、数学だけは1年生の時のクラス担任であった湯浅哲治先生がご自宅に呼んでくださり、毎週土曜日にお伺いして勉強をしていました。そこでは次学期の数学課題を教えて頂いたり難問にも挑戦させてもらい、それが楽しくて自然と力がつき、数学では人に負けない成績だったと思います。
当時、理系クラスはA級からD級までの4クラスで、私は特別クラスのA級ではなく普通クラスのD級でしたが、成績はクラスの中では上位だったと思います。クラスの1番後ろの席に座って、勉強をしないふりをしながらも数学でA級の子よりも良い成績を残すことに一生懸命でした。
これも、先ほどの「鶏口牛後」の一つで、人間は他に負けないものを持つことが、その人を強くしていくと思います。自分から望んで競争に負ける環境に身をおくよりも、自分が勝てる環境を見つけ出す方が、人生で成功する秘訣だと思います。
私の息子にも、「負けるな」ということと、何事にも「トップを目指せ」ということを常に言っています。
3.高校時代に印象に残っている先生がいらっしゃれば教えてください。
まず、後藤賢三郎先生という、雲の上のような存在の校長先生がおられました。後藤校長は、後に首相になる中曽根氏と友人だったようです。中曽根氏は、当時どこかの省の大臣をされていたと思いますが、突然、宮崎に来られ、大宮高校で講演をされました。黒塗りの車が校内に停まり、SPを引き連れての講演会でした。講演では「スピリッツ」という言葉を何度も使われていたことだけ覚えています。うちの高校にこんな大物が講演に来てくれるという、そのような大物とコネクションのある後藤先生は凄い人なんだと思いました。
次に、数学の湯浅先生です。湯浅先生には、私の数学の能力を引き出していただき、自信をつけさせてもらいました。科目も、全体の成績が平均してほどほど良いよりも、ずば抜けた教科が一つあれば、それが自信に繋がります。私は国語が苦手でしたが、数学ができましたので、そのことで自信がついて3Dのクラスにおいても上位の成績でいることができたのだと思います。鶏口牛後の大切さを知ることで、九大やその後においても、トップを目指して頑張ることができたと思います。
(湯浅先生(左)と早下学長(右) )
私が上智大学の教授になったとき、湯浅先生が大学まで訪ねて来てくれたことがあって、そのときは本当に嬉しく思いました。そんな湯浅先生が、残念ながら先月他界されました。昨日、先生のご自宅を訪ねた際に、先生の奥様から先生が私のことをいつも自慢してくれていたという話を伺い、本当に胸が熱くなりました。
バレーボール部の顧問であった倉本先生も私に大きな影響を与えてくださった先生の一人です。倉本先生は、体育会系の先生で「逃げない自分」をまさに育ててくれました。当時バレーボール部同僚だった橋口君(現:帝京科学大学体育科教授)と、「あの当時の練習は、今の部活指導では有りえないね」と話をしていたくらい、厳しい練習だったと思います。練習が苦しくて泣きながらレシーブをしたり、普通の練習時でさえ、体育館の2階に練習見学のギャラリーが集まるくらい厳しかったことを覚えています。そんな練習に耐え抜いての県ベスト8でした。先日、私の2つ下のバレー部後輩に会いましたが、彼も企業の役員になっていて、大宮高校バレー部出身者はなかなか活躍しているなという印象です。
4.最後に同窓生に一言、メッセージがあればお願いします。
私は現在、東京におりますが、上智大学の教員として、学部長として、そして学長として、様々な問題に直面し難しい対応や大変な場面を幾度も経験してきました。そんな時に、私の大宮高校時代の同級生が浅草の「寄席」に誘ってくれて、そこで仕事での大変なことをすっかり忘れ大いに笑い、そしてその後は同級生と楽しく歓談する時間を作ってくれました。職場の難しい人間関係から離れて、大宮高校の卒業生で「集える」ということは、今でも大きな心の支えになっています。
宮崎大宮高校には歴史があって同窓生も多く、また、同窓生がこんなに縦と横が繋がっている同窓会は少ないと思っています。これからも弦月同窓会を大事にし、同窓生との繋がりを大切にしたいと思います。弦月同窓会は宮崎大宮高校の卒業生全員が集って助け合うことができる会だと思っていますので、私もできる限り支援して行きたいですし、この会を皆で支え合うことが何より大切だと思っています。
略歴
氏名:早下隆士(はやした・たかし)
1958年3月6日生まれ、宮崎県出身(満56歳)
専門は分析化学。
1980年九州大学工学部卒業。82 年同大学院工学研究科修士課程修了。85年同研究科博士課程修了。工学博士(九州大学)。神奈川大学工学部助手、米国テキサス工科大学博士研究員、佐賀大学理工学部助教授、東北大学大学院理学研究科助教授を経て、2005 年より本学理工学部教授。2009 年理工学研究科化学専攻主任、2010 年より理工学部長、理工学研究科委員長。
また、上智大学女性研究者支援事業プロジェクト推進代表(2012 年まで)、上智学院男女共同推進参画室室長補佐を務める。
このほかに、社会的な活動として、経済産業省日本工業標準調査会標準部会委員、日本学術振興会特別研究員等審査会専門委員、国際事業委員会書面審査委員、科学技術振興機構科学技術人材育成費補助金・女性
研究者研究活動支援事業審査委員などを歴任。日本分析化学会、アメリカ化学会、ホスト-ゲスト・超分子化学研究会、日本イオン交換学会、シクロデキストリン学会などに所属。