弦月同窓会長の渡辺綱纜でございます。
昭和24年、第1回の卒業です。
弦月同窓会を代表いたしまして、一言ご挨拶を申し上げます。3年生の皆さん、いよいよ明日は卒業式ですね。1日早くお祝いの言葉を申し上げます。
ご卒業おめでとうございます。弦月同窓会は心をこめて皆様の卒業をお祝いすると共に、明日からの同窓会への入会を歓迎致します。大宮高校は、先ほど立派な垂れ幕が、校舎の正面に掛かっておりましたけれども、今年創立120周年を迎えました。今月の1日が創立記念日、120周年の創立記念日です。
その日、私どもは、今皆様にご挨拶いたしました同窓会の会長、副会長揃って校長室に参りまして、皆さんの生徒会の代表の方も出席して頂きまして、ささやかではありますけれども、同窓会から120周年の記念事業費として、120周年にちなみまして120万円を寄贈申し上げました。と同時に、これはすでに走っておりますけれども、部活支援のための専用バス、残念ながら新車でなく中古車ですけれども、これも120周年を記念して同窓会から寄贈させていてだきました。その、栄えある120周年の年にですね、皆さん方は卒業されるわけでありまして、一生皆さんのすばらしい思い出になるんではないかと、そう思います。卒業生の数も皆さん385名を加えて、45,717名になりました。全国に公立、私立あわせて約5,400校の高校がありますが、120年の歴史をもつ学校というのは5,400校の内わずか139校であります。そのうちの1校が大宮高校ということになります。また、ただ今申し上げましたが、卒業生の数が明日で45,717名になるわけでありますけれども、4万人以上の卒業生をもっている高校というのは、5,400校の内わずか15校しかありません。大宮高校は、その15校の内の6番目でありますから、全国で6番目の大きなマンモス同窓会と、こういうことになります。私どもはこのような歴史と伝統に輝く母校で学んだことを、今更のように誇らしく思わずにはおられません。
ところで話は変わりますが、最近全国的に宮崎が有名になっております。大げさに言えば、宮崎ブ-ムと言ってもいいでしょう。これは皆さんもご承知のように、新しい知事、東国原知事になって、知事独特のパフォ-マンスと、そのマスコミ効果・メディア効果によるものではありますが、先日も東京にちょっと用事があって参りましたが、どこに行っても、宮崎のことを話題にされました。大変嬉しく思いました。只一つですね、ある会合に出ましたらですね、不満に思うというか少しばかり憤慨したことがあったんですね。それは何かと言いますと、ある人からこう言われたんですね。「今まで、あまり偉人とか有名人とか出なかった、まあどちらかといったら人材不毛の地であると思っていた宮崎から、よくあんな個性溢れる知事が輩出しましたね。」と。賞めたつもりで言ったんでしょうが、私はちょっとですね、憤慨したわけです。「いや、それはどうでしょうか。人材不毛というのは認識不足ではないですか。宮崎県は決して人材不毛ではありません。歴史的に見ても、偉人をいっぱい出しております。」「あ、そうですか。」と言われますので、こう申し上げました。皆さんは古事記とか日本書紀をお読みになったことがありますか。戦前はよく読んだんですけれども、戦後はですね、日本の神話とか伝説とかがおろそかになっておりますから、読む機会もないかもしれませんが、私はですね、古事記とか日本書紀はこれは日本の大切な神話であり、神話は民族のロマンであると思っていますから、ぜひ目を通してもらいたいんですが、その古事記、日本書紀の話をしまして、その中に出てくる神武天皇、今の皇室の御祖先でありますけれど、第一代の神武天皇は宮崎県の出身ですよ。こう言いました。宮崎市民、宮崎県民は、今でも神武天皇とは申しません。神武さん、神武さんと、さんずけで呼んでおります。そのくらい祖先をですね、大切に親しみをこめて呼んでおりますよ。そう申し上げました。
続いて私が言ったのは、あの安土桃山時代、安土桃山時代といったら豊臣秀吉が威張ってたころですね。その安土桃山時代に日本の宗教使節、少年宗教使節をロ-マに送ったんですが、ロ-マの法王庁にですね、そのときの代表は、これは皆さんもよく知っておられると思いますけれども、若冠12歳の伊東マンショ、西都市都於郡の出身ですね。4年かかって、あのアフリカの岬をまわって小さな帆前船に乗ってですね、僅か12歳の少年が、ヨ-ロッパに渡ってロ-マ法王に謁見して、当時ヨーロッパ中の話題になった。また帰りも4年かかって帰って来た。その伊東マンショも宮崎県の出身であります。また、アメリカのケネディ大統領が世界で一番尊敬する人物はと聞かれた時に、ケネディが、「それは、日本の上杉鷹山公です。」と答えた話はあまりにも有名ですけれども、米沢藩主ですね、上杉鷹山は。この方も、宮崎県は高鍋町の出身であります。江戸時代になりますと安井息軒という大漢学者がおりました。将軍を教えておりました。宮崎郡清武町の出身ですね、安井息軒は。その弟子であった三好退蔵、高鍋町の出身でありますが、この三好退蔵という人がですね、今の日本の裁判所とか検察庁とか、そういう司法制度の基礎を作った人なんですね。日本で最初に。で、後に検事総長になったり、大審院長、大審院長というのは今の最高裁長官、この三好退蔵も宮崎県高鍋町の出身ですよ。私は声を強めて言いました。まだいくらでもおります。あの日露戦争を終結させポ-ツマス条約を締結して、日本をですね、世界の日本にした明治の有名な外交官、外務大臣、小村寿太郎も宮崎県の出身です。日南市飫肥町の生まれです。また日本には脚気という大変苦しい病気があったんですが、その脚気を退治して世にビタミン博士と言われた「病気を診ずして病人を診よ」の言葉で知られる医学博士高木兼寛、これも宮崎市高岡町の出身です。また『白鳥は 哀しからずや 空の青 海のあをにも 染まずただよふ』 『幾山河 越えさり行かば 寂しさの 終てなむ国ぞ 今日も旅ゆく』あの旅の歌人若山牧水も宮崎県の出身であります。延岡市出身ですね。それから、今こそ福祉、福祉と言っているけれども、そういう言葉をあまり使わない時代、あの大正時代にですね、岡山市で2000人以上もの孤児をですよ、孤児を集めてですね、そして養った石井十次という、日本の孤児の父と言われているその人も宮崎県出身、新富町の出身ですね。それから、今は航空の時代、空の時代でありますけれども、日本で最初の民間航空のパイロット後藤勇吉さんは、延岡市の出身であります。戦前ではありますけれども、ベルリンのオリンピック大会でマラソンで世界中をわかせた村社講平選手。宮崎市赤江の出身であります。また、あの太平洋戦争で最後の海軍の連合艦隊司令長官になった小沢治三郎、この人は高鍋町の出身であります。そして戦後は、日銀総裁になった森永貞一郎、小林市の出身ですね。我々の地元宮崎市の出身、観光の父、岩切章太郎、その他、スポ-ツの選手は柔道の井上康生を始め、もう女子ゴルフに至るまで、いくらでも宮崎県出身はおりますよ。こう言いましたら、さすがの江戸っ子達も、そうか、かなり宮崎県には偉人、有名人がおるんだなあと言って納得をいたしておりました。
ただ今、申し上げた名前の中に大宮高校の出身の先輩が3人います。まず1人は村社講平、ベルリンオリンピック大会の花形ですね。それから最後の連合艦隊司令長官小沢治三郎、それと、宮崎県観光の父、岩切章太郎。以上の3人は、大宮高校の出身であります。
岩切章太郎さんの名前が出たところで、今日は卒業生の皆さんに、はなむけの言葉を贈りたいと思いますが、それは岩切章太郎さんの言葉でありますが、実は私は、先ほどもちょっと紹介の中に出ましたけれども、昭和28年に大学を卒業しますとすぐ、宮崎交通に勤務致しまして46年間お世話になりました。その内の32年間、この岩切章太郎という宮崎交通の創立者、そして観光の父に仕えましたけれども、いつも岩切章太郎さんが何かあると私たちに言ってた言葉は『心配するな、工夫せよ』でした。これから皆さんはですね、人生でいろんな困難に立ち向かうことがあります。悩むこともあるでしょう。しかし心配ばかりしていても一歩も進みません。心配する時間があったら、どうしたらよいかということを、前向きに工夫することではないかと思います。私自身の体験を振り返りましても、この『心配するな、工夫せよと』いう言葉のおかげで、どれだけ救われたか数え切れません。この言葉をはなむけの言葉にお贈りしたいと思います。
いよいよ明日は卒業式、皆さんはこれから大学に行かれたり、社会人になったり、全国各地で輝かしい未来を築いて行かれることでありましょう。心からもう一度、ご卒業おめでとうと申し上げますと共に、全国各地で、あるいは世界各国で、たとえ地球の果てに行っても、この大宮高校、120周年の伝統に輝く我が母校大宮高校を、どうか思い出して、それを励みにしていただきたいと思います。大宮高校の卒業生であることを胸に刻んで、正しく、強く、そして明るく生きて下さい。困ったことがあったら、『心配するな、工夫せよ』という言葉を思い出して下さい。どうぞ頑張って下さい。心から皆様の前途を祝福して、弦月同窓会を代表しての、ご入会に対するお祝いの言葉とさせて頂きます。ありがとうございました。
弦月同窓会会長 渡 辺 綱 纜